2018年、東京松之山会会報誌カントリーポエムに一本の記事が寄稿された。

埼玉県草加市に住む松之山出身の男性が1954年に松之山温泉街を襲った大火を語るという内容のわずか1ページの記事だった。

しかし、その記事は松之山温泉街の人々が「松之山大火」を思い起こし、さらなる地域防災を考えるきっかけになったのだそうだ。

当時を知る人が少なくなりつつある松之山温泉で、大火とその復興の歴史を辿りながら、これからの地域防災の在り方を聞いた。

松之山を襲った大火の惨状

1954年8月19日の夜。松之山温泉街の奥から出火した炎は木造の旅館同士が密集する中で燃え広がっていった。およそ500名の観光客が宿泊していた温泉街は騒然となる。その日は不運にも台風が近づいており大変な強風だった。

火災発生前の松之山温泉街

強風によって燃え広がる炎。延焼は止まらず、消火活動は難航した。なぜならば、消火設備や消防署体制が整っている現代と違い、地域住民で組織された消防団が初期消火を行わなければならなかったからだ。

当時は、市街地から消防隊が到着するまでゆうに一時間以上かかった。その間の消火に使えるのは松之山にあった3台の人力腕用ポンプと、唯一の手引き動力ポンプしかなく、燃えさかる激しい炎を鎮火させることができずジリジリと後退を続けた。


懸命に続く消火活動

十日町から応援の自動車ポンプ車が到着する頃には温泉街の半分近くが炎に包まれており、消防隊と消防団の懸命な消火活動にもかかわらず、出火からわずか二時間あまりで旅館6軒と商店2、飲食店1、土蔵および共同浴場家屋の11軒を焼失させてしまった。

これが松之山町史に伝わる「松之山大火」である。

柳 靖治氏「昭和29年の夏、松之山大火があった時は中学1年生でした。当時の私はまだ松之山温泉の人間じゃなかったのですがね。ちょうど台風が近づいている時で風も強かった。」

松之山大火から今日までの松之山を知る柳靖治氏は、一冊のアルバムを取り出した。


柳靖治氏

当時の状況を記した千歳館(現・ひなの宿ちとせ)の主人、柳政司氏の手記

『温泉の大火…伝統を誇る名湯として天下にその名を喧伝され親しまれて来た松之山温泉の不幸。昭和29年8月19日の深夜に起こった大悪火は羅災者の尊い生命線である住居を始め、営業用品は勿論多年苦心努力の結晶で作りあげた生活必需品を併せ多額の財産を僅か二時間余にして烏有に帰した事は到底言語や字句に現しえない大惨事であった。』

手記を書いたのは当時の消防団を率いて消火活動を行っていた柳政司氏。柳靖治さんの義父にあたる。


松之山大火直後の温泉街

無残にも焼け落ちた温泉街の旅館、家屋。この大火の中で幸いにも死傷者は1人も出なかった。損害推定額は当時の貨幣価値で1億3千万円だった。

松之山復興への決意

『今にしてその(大火)原因や大火たらしめた幾多行方について百万遍これを繰り返して見ても帰らぬ事であり、又巷間に伝えられる流言蜚語を論究してみても元の姿にはなりえないのでここに羅災者一同はそれらに耳目を傾けることなく、むしろ各自の過去に於ける反省すべきことは断固反省し白紙の上に新しき更生復興の線を引き一日も早く生活の安定を得、事業の進展に邁進すべく決意を新たにする。』
手記の続きには復興への新たな決意が書かれていた。大火の惨事を受けながらも前に進んでいく力強さは、当時の写真からも伺える。

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復興には当然ながら多額の費用が必要だった。資金繰りに奔走する中で、一刻も早く営業を再開してお客様を迎えいれたい気持ちが復興の糧になった。

柳 靖治氏「松之山大火の前、温泉街は狭い一本道だったけど、当時の温泉組合の人達が大英断をして、お互いに土地を譲り合って今の広い道にしたんです。同じ温泉街とはいっても旅館同士は商売敵でもありますから大英断だと思います。色々とあった綻びも松之山大火を経て、団結したということもあったのではないかと思います。」

温泉街の人々は「一日も早い復興」を目指して、復興資金の融資を得るべく奔走した。

『災害整理後夜半1人焼跡に立った時、自然の恵みの温泉だけは大火も知らぬげにこんこんと湧いており1日も早い復興を待ちわびておるかのよう。温泉という地下資源のあることにより、周囲の人たちの同情も絶大なものがある復興の意欲を滅んずる羅災者全員が同時に立ち上る最大の問題として復興資金の調達であり一切の財産を灰燼に帰した事であり、資金借り入れの保証人をどうするか時の村長の計いで、松之山温泉復興後援会を結成する会員として村内の有志共に各羅災者の親族があたる。』

当時、松之山大火はラジオや新聞で大きく報道され、全国各地から支援もあったが、足りない資金については銀行からの融資を受けなければならなかった。

必死の奔走をすること3ヶ月半。その年の暮れ1954年12月31日、遂に融資が決まる。

記録によると、翌年には一部の旅館が営業を再開させることが出来たとあり、復興にかける強い思いが感じられる。

柳 靖治氏「他にも松之山大火の前までは、温泉の源泉は松本市の赤羽商店が土地の権利と一緒に所有していたんです。しかし松之山大火を経て、要となる源泉は地域で所有したいという強い要望があり、これに対し赤羽商店の店主である赤羽茂一郎氏は地域の温泉復興に役立つ事であればと泉源地の譲渡に応じてくださり、源泉の所有は町有財産となったわけです。そういったことも重なって、地域の結束というのは強くなって松之山温泉の力になったと思います。」


復興後の松之山温泉街

松之山大火が今の松之山温泉に残したものとは

松之山大火によって失ったものは多かった。この大火をきっかけに松之山温泉の地域防災は見直されることとなる。

柳 政道(現在)「松之山大火から現在に至るまで、温泉街の防災設備は充実していきました。河川の中に設置された取水のための枡、新しい防火水槽、市内でも2台しかない最新の消防自動車、温泉街の中心を通る消雪パイプ。地域住民とお客様を守るための設備が整っていると思います。」

そう話すのは十日町市消防団松之山方面隊第2分団自動車部長として地域防災に取り組む柳政道だ。手記を残した柳政司氏の孫にあたる。


柳 政道氏

かつては初期消火の要となっていた消防団だったが、消防署が各地域に配置された現代においてその役割は防火・啓発活動が中心となっている。

柳 政道(現在)「防火啓発活動の一環として行っている活動の一つがご存知の通り防災訓練です。今年は色々なことが重なっていつもとは違う防災訓練になりました。」


柳一成組合長(現在)

柳一成組合長(現在)「今年はたまたま温泉組合長を勤めることになって、弟も消防団で今の立場にある。火災も減り、安心して生活できる近年では防災訓練も「マンネリ化」しかけています。その防災訓練を活気づけたいと考えていたのです。」

柳一成組合長(現在)。弟の柳政道さんと同じく柳政司氏の孫にあたる。

柳一成組合長(現在)「防災訓練の内容を消防署に要望していた時に、たまたま当時消防団長をしていた祖父と一緒に消火活動をされていた樋口さんという方が松之山大火を振り返る記事を寄稿してくださっていたのです。」

東京松之山会会報誌カントリーポエムに記事を書いたのは、当時消防団員として消火活動にあたった樋口乾三さん。樋口さんは同会報誌に掲載されていた、松之山大火が起きる前の木造三階建の千歳館(現・ひなの宿ちとせ)の写真を見て、当時のことを思い出したのだという。

『当時、私は農家の長男として消防団に入団していた(第一分団第一部)。当日役場のサイレンによりポンプ小屋へ駆けつけた。すでに分団長他10名ほどがおり、魚屋さんの1トントラックに町で1台しかない手引き動力ポンプを積み込み、これに乗り込み手回しのサイレンを鳴らしながら松之山温泉に向かった。』

緊迫感が伝わってくる文章に当時の情景が想起される。

『温泉へ着いて見ると、すでに和泉屋さんや野本旅館に延焼しており、火は千歳館の木造三階立ての建物へ移ろうとしていた。すでに松里地区の腕用ポンプが2〜3台出動していたが火勢が強く焼け石に水である。私たちも温泉下の仙橋際にポンプを据え付け、上り坂の温泉街にホースを12本延長し、千歳館前まで到着した。しかし、水圧が弱い。千歳館への延焼を食い止めることが出来ずじりじりと後退を続けた。』

60年以上経った今でも、その口惜しさを思い出すそうだ。
樋口さんはその後昭和37年からの地すべり災害で松之山を離れ、埼玉県草加市の消防本部へ勤めることになる。

『数々の火災現場に遭遇する中で指揮者になった時、柳団長の毅然とした指揮が心の支えになっていた。』

柳一成組合長(現在)「樋口さんは、自分の故郷のことをちゃんと残そうとしてくれました。松之山温泉街の防災訓練を見直そうという時期に、こういった記事が世の中に出て、この記事が後押しとなるように、消防署の皆さんも動いてくれて、色々なことや人が巡り巡って松之山大火を残そうとしているのではないかと思います。」

松之山温泉のために先頭に立ち奔走した柳政司氏と松之山温泉街の人々の想いは時代を越えて継承されているようだった。

松之山大火を心に刻み、後世へ伝えることが地域防災の始まり


復興後の温泉街全景

柳 政道(現在)「今年の防災訓練は、そういった経緯もあって実践に近い内容でした。出火場所や状況は事前に伝えられず、その場の判断で状況に応じて動くという内容です。本業で消防をやっている人はいませんから、普段より緊張感や焦りがありました。こういった刺激があったことで地域防災の状況や意識は大きく変わったように思いますね。」

災害は「起こらない」ことが一番だ。地域防災が発展し、消防団の役割が変わっていくとしても、「実際に発生した時にどう動くのか」を意識し続けることは、いざという時の大きな力となる。

大火の経験と大きな苦難を伴った復興の過程を後世に伝えていくことは、松之山温泉の地域防災を考えるうえでの根幹となる。十分な装備の無い中で、火災を食い止めようと必死に立ち向かった当時の消防団員たちの闘志。一日も早い復興を目指し、東奔西走した先人たちの決意と団結。60有余年に渡り、防災力強化のために地域を見つめてきた住民たちの熱意。すべての「想い」を決して忘れてはならない。