明治初期のひなの宿ちとせ
明治初期のひなの宿ちとせ

“日本三大薬湯”。国内を代表する薬効の高い温泉地をまとめたものですが、名湯としても名高い有馬温泉、草津温泉と肩を並べ、松之山温泉もそこに名を列ねているのをご存知でしょうか。「約七百年以上も昔、鷹がいつも同じ谷間に降りていくのを不思議に思った木こりがそこへ行ってみると、こんこんと湯が沸く熱泉があり、鷹がそこで傷を癒していたのを見つけた」。松之山温泉にはそんな言い伝えの他にも、その泉質の良さを伝える話や出来事がいくつも残っています。

温泉街を長年にわたって見守り、町議や観光協会長を歴任しながら幅広く地域に貢献してきたひなの宿ちとせ会長の柳靖治さんに、日本三大薬湯松之山温泉の歴史をたっぷりと聞きました。

一号井と柳靖治さん

昔から薬効は評判だった

今日では11軒の旅館を構えるようになった松之山温泉街ですが、数百年前までは何でもない谷間でした。あるときそこにぽつんと湯小屋が立ちます。

「温泉街の入り口のすぐ下に川が流れていますが、その川のほとりの地名を“湯尻”というんですね。ずっと昔、その湯尻には湯小屋があったとされています。いまでも川の岩肌の間から、あったかい鉱泉が出ていますよ」。

五百年以上前のこと。上杉家七代当主の上杉房能は、上杉謙信の父である長尾為景に追われ、温泉街の奥にある小高い森で自害。松之山天水越の松里小学校脇にはそのことを記す官領塚があります。そのときの様子は古文書にも書かれており、当時から湯治場として使われていたことをうかがわせる記述も残っています。

「房能の娘、かみが結婚式を挙げるというときに、はれものができて。かみは松之山温泉に湯治に訪れ、はれものを治し、無事祝言を挙げることができたという。だから、そのころには旅籠があったんじゃないかと」

そして時は江戸時代へ。松之山温泉はその薬効の高さから、当時発刊された温泉番付で堂々小結につけるほど全国的に評判になりました。そもそも、日本三大薬湯とも称される泉質にはどんな秘密があるのか、気になりますね。

「松之山温泉の湯は、約千二百万年前の“化石海水”だと考えられています。地下に閉じ込められた海水が、圧力によって地上に一気に吹き出す。“ジオプレッシャー型温泉”と呼ばれ、日本では非常に珍しい温泉です。海岸端にある温泉で塩分を含む泉質のものがありますが、そういった温泉とはまた違う。温度も成分も高いことが特長なんです」

温泉番付
江戸時代に発刊された温泉番付。松之山温泉は堂々の小結

湯治場として発展

“ひなの宿ちとせ”の開業は明治28年。そのころはまだ各旅館内に風呂がなく、訪れた客は旅館の外にある共同浴場に行っていたとのこと。

「白川屋さんと和泉屋さんとの間に最近、消雪パイプ用のポンプ小屋ができましたが、あのあたりに“一号井”と呼ばれる一番古い温泉井戸があるんです。昔はそこに湯小屋もあって。まず宿に来たら、手ぬぐいを肩にかけて、カラコロカラコロと出かけていったんですよ。ようやく旅館に温泉を分けてもらえるようになったのは、明治の中期から後期のころなんです。」

ポンプ小屋と柳靖治さん
かつて湯小屋があった場所。現在は消雪パイプ用のポンプ小屋が

一号井と柳靖治さん
ポンプ小屋のすぐ裏手には“一号井”がある

世界有数の豪雪地帯である松之山。冬の温泉街はがらんとしていたものの、春になると大勢の人が訪れました。松之山温泉は近隣の農家の湯治場でした。

「五月の連休頃になると、旅館の若いしょがスコップとかいろんなものを持って、バスで隣町に抜ける峠の行けるところまで行って。とにかくそこを通れるようにしようということで、人力で除雪したんです。五月二十日頃にはなんとか通れるようにして、十日町、上越から、近隣の人達が、仲間で風呂に入りに来たんですよ」

雪にすっぽりと包まれた温泉街
雪にすっぽりと包まれた松之山温泉

雪にすっぽりと包まれた温泉街

「四日、五日、長ければ一週間や十日も泊まっていきました。旅館の外側が、ぐるりと廊下になっていて。お客さんはそこに七輪を置いて、自炊をしていたんです。そうやって冬の間の疲れを癒し、英気を養って、春の農耕に臨んだんですよ。米一升とか、あと味噌とか、そういったものを背負ってきて。それが宿賃だった。そんな時代があったんです」

三味線を持ち込んで湯治
湯治に三味線を持ち込んだりするお客さんも

ありのままの魅力

戦後、昭和の中頃になると、客数が少しずつ増えていきました。お客さまの需要に応えるため、湯船を拡張したり、露天風呂を新設するとなると、一号井だけでは湯が足りません。そこで昭和39年、新たに温泉井戸を掘ります。現在、温泉街の奥で櫓からもくもくと白い湯気をあげているのが、その“二号井”です。

二号井と柳靖治さん
増加するお客さまの需要に応えるため、昭和39年に掘削した“二号井”

お客さま数の増加とともに、客層も変化していきました。湯治客よりも一泊して宴会で芸者会をするような方々が増えて、最盛期には松之山温泉にも芸妓さんが30人ほどもいたとか。しかし靖治さんには、そんな時代にもいつか終わりが来る、そんな予感があったそうです。

「どこの温泉地でも、芸者会で保っている時代があったんです。私たちもはじめはそれらと同じ方向へ行きつつありましたが…どこかで、それじゃあ長続きしないだろうなと。ここの温泉地はどういうところなんだ、っていうのをPRしなければならない。そう思っていました」

靖治さんが先頭に立ち、松之山温泉は新たな方向へと舵を切っていきました。“秘境”の地だということを、積極的に発信し始めたのです。自然が豊かで、野鳥の宝庫で、豪雪地帯。

「無理に飾る必要なんてない。松之山温泉は、そのままの姿で求心力があるんです」

日本三大薬湯の歴史を辿る話は、いつしか今の松之山温泉のあり様につながる話題へと発展していきます。後編へ続く。

 

語り手:柳靖治さん
ひなの宿ちとせ現会長。松之山地域温泉委員会委員長。旧松之山町町議や旧松之山町観光協会長などを歴任。

一号井と柳靖治さん